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【書評】

宇野常弘『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011.7.刊行

『東洋経済』2011917日号、146頁、所収

 


 

 現代社会を語る上で、大きな準拠点となる本が現れた。戦後日本の文化経験を、「ビッグ・ブラザーの時代」から「リトル・ピープルの時代」へという大胆な構図で捉え、大衆文化全体のダイナミズムを透徹したまなざしで分析する。すると個々の小説やアニメやTV番組がなぜ成功し、あるいは躓いたのかが理解できるという仕掛けだ。

 例えば、戦艦ヤマトにせよ、ウルトラマンにせよ、戦後の大衆文化の多くは、「大いなる父=ビッグ・ブラザー」を前提としていた。共同体の外部から襲来する敵に対して、超越的に降臨する権力者=父が立ち向かう。いわば国民国家間の総力戦を模したシナリオになっていた。

 そんな父権に抵抗したのが、六八年の学園闘争を経験した団塊の世代であった。以降の大衆文化は、大いなる父(国家あるいはシステム)からいかに距離を置くか、あるいはこれをいかに解体するかという対抗的な関心に導かれていく。

 ところが九〇年代後半以降のグローバル化とともに、こうした離脱と解体の物語は失効する。もはや外部は存在せず、代わって誰もが小さな父としてコミットメントしなければならない時代がやってきた。私たちは実際には矮小な父にならざるをえないが、それは嫌だからデタッチメント(離脱)するのか、あるいは、にもかかわらず引き受けるのか。小さな権威として社会に参加することは、現実拡張の道具=ネットワークの世界を通じて、想像力豊かに担いうるというのが本書の主張だ。

 全体は三章構成で、第一章の村上春樹論は、一通りの作品分析を踏まえた上で、「小さな父」をめぐる村上の最近の議論がジレンマを抱えていると論評する。

 時代を切り開く力を持った物語は、むしろ仮面ライダーであった。その平成シリーズを扱った第二章は秀逸。大いなる父の壊死(=空虚な世界の出現)において、それでも私たちはタフな精神を持って闘わなければならない。そんな時代を映し出すのがとりわけ第三作の『龍騎』で、同作では13人のライダーたち(小さな父)が、それぞれの正義を掲げて殺しあう。もはや正義/悪の二元論は通用せず、あるのは複数の正義=欲望の争いとなる。

 仮面ライダーは、改造人間という拡張性ゆえに現代性を備えていた。これに対してウルトラマンやロボットものは失効する。豊かな想像力は、外部に仮想される「もう一つの現実」にではなく、私たちの〈いま・ここ〉を掘り下げた「拡張現実」にある。それは例えば、ハッカーのように、システムの内部に潜り込む能力によってもたらされるというのである。

 橋本努(北海道大教授)